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マウス・オブ・マッドネス


保険調査員トレント (サム・ニール) が知人と食堂で話をしていると、斧を持った男が乱入してきて「お前はサター・ケーンを読むか?」と聞いてきた。男は答えに戸惑うトレントに斧を振り上げるが・・・。

後日、トレントの元に仕事の依頼が舞い込むがその内容は行方不明になった作家、サター・ケーンの捜索依頼だった。トレントは連日耳にするサター・ケーンのことに腑に落ちないものを感じながらも依頼を引き受け、翌日ケーンが書いた小説を手に取った。最初は小馬鹿にしていた彼だったがケーンの書いた小説にはどこか惹きつけられるものがあり、気がつくと夢中で読み耽ってしまう。そして彼が全ての巻を読み終えた時、トレントにはケーンがどこに居るのか「判ってしまった」。


 
ジョン・カーペンターが94年に撮った「マウス・オブ・マッドネス」。
彼のことを映画ファンが語るとき必ずつけるであろう「B級監督」という肩書き。だけどそれは悪い意味ではなくマイノリティな部分を持ち続けているからだ。ジョン・カーペンター、シニカルな男でもある彼は物語の背景で皮肉る。 そこがおもしろいし、彼の社会の見方は個性的で鋭い。

この作品は創作物であるはずの小説が悪の力を持ち、人の精神を蝕んでいく話。サイコ・ホラーという服を纏ったこの映画の描写はチュプチュプした触手や怪物、悪夢、既視感の描写を多用し、どこまでが現実でどこからが狂気なのかの境目が分からなくなってきているトレントの精神状態をうまく映像化していて、観ているこっちまで焦点が定まらなくなってくる。また物語の端々でラヴクラフトの「クトゥルフ神話」を思わせる気持ち悪い怪物と人の融合もあったりして、悪しき種としての人間を駆除することで世界の再生を目論んでいるとも受け取れる内容だ。
 

  
ジョン・カーペンターは「B級監督」と書かれるとさっき書いたけど、それと同じだけ彼は「鬼才」とも書かれる男だ。なぜそう書かれるのか?それは「物体X」では人間不信を描き、「ゼイリブ」では消費社会を皮肉るという風刺を映画の背景に籠めているからだ。じゃ、この「マウス・オブ・マッドネス」にも何がしかのものが在ると考えるのは、おかしいことじゃない。その部分のキーは

「周りがすべて狂気に飲み込まれ、あなたが最後のひとりとなったら・・・どんな気持ちになる?」

という物語の序盤に語られたリンダの言葉で説明されていた。彼女の言葉からこの映画を考えてみると「多数が絶対に正しい」という 「狂気」 をカーペンターは背景に描いていることとなる。例えば100人居て95人が白を黒と言えば、それは「黒」なのだ。でも実際は違う。白は白だ。だけど例え間違っていようと「個人」から「集団」になればそれは「正しい」こととなり、数が多い意見に異を唱える者が「おかしい」となる。
 

 
以上のことを実際に考えてみると、かなり恐ろしい・・・本来「正しい」と思われてたことが「多数の狂気」によって強引に捻じ曲げられて蹂躙されてしまうのだし、それは 「みんなと同じでないとオカシイ」 ということと同じだ。果たしてそんな状況で人は、どこまで自分の意見を貫くことが出来るのか?映画の中で「白を指して白と言い続け抵抗している」 のがトレント。そしてこの物語はそのトレントが、最後のひとりになるまでの物語。
 
 
この曲は映画のオープニングで輪転機が本を生産しているシーンで使われているのだけど、一度映画を最後まで見てから再度観ると物凄く恐ろしく感じます。
 

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